三屋清左衛門残日録 藤沢周平

以前、ヤフーブログで読書日記を書いていたが、中断したままになっていた。

いつか再開したいと思っていたが、今回、はてなブログで再開することができた。

まずは、時代物の古典の三屋清左衛門残日録から。

 

時代小説の主人公には、なかなか老人はなりにくいものだが、この小説の主人公は、隠居した老人である。

老人といっても五十二だから、今の感覚でいれば、老人ではないだろう。

だが四十が初老と言われた江戸時代では、すっかり老人である。

 

用人という役職までに上り詰め、世間的には、出世したと言われているが、主人公の心は何か満たされない。

そんな主人公の物語である。

ある地方の小藩で起きるいろいろな出来事を元用人の清左衛門が解決していく。

その背後には、藩の重臣の派閥対立がある。

派手なチャンバラは、あまりないが、一つ一つのエピソードが面白い。

それは、不幸な女のものだったり、不遇だった男のものだったりして、現代にも当てはまるものだ。

時代小説とはいえ、現代にも通じる普遍性がないと読者の共感は呼ばないだろう。

 

主人公は、そんなエピソードを終始温かい目で見守ってくれる。

何か、ほっとするような、気持ちのよい読後感である。

 

時代小説の読者は、高齢者が多いという。

無論現代の高齢者である。

だからこの小説の主人公よりは、ずっと年上だろう。

現代においては、高齢者は、何かマイナスイメージである。

認知症、介護、振り込め詐欺等、現代日本においては、老いはいい印象を持たれていない。

若いということだけで価値があるようだ。

 

だが、江戸時代、「老」という言葉は、必ずしもそうではなかったようだ。

老中、若年寄、中老などと幕府や諸藩の役職にも「老」という言葉が使われているが、マイナスイメージではない。

経験ある、上級な、といったいイメージではないか。

そんないいイメージが現代になっては、悪くなってしまった。

無論寿命が延びたこともあるだろう。

この小説の主人公の年齢の五十二は現代では老人ではない。

 

何かこの小説に描かれた江戸時代の老人の活躍を読んで、もちろんフィクションだとはわかっているが、「老」という言葉の持っている本来の意味を思い出させてくれるようである。

だから今後は、総理大臣は、老中、各大臣は、若年寄と呼んでもいいのではないかとも勝手に想像したりしている。