江戸300年「普通の武士」はこう生きた 八幡和郎 臼井嘉法

武士というと特別の倫理観を持った人間のように思われるが、小説等で描かれる武士は、特別な存在であろう。

実際の武士は、やはり現代人と同じ生身の人間だったことは、間違いない。

小説やドラマで描かれる武士像は、ある意味では、ファンタジーの主人公である。
剣豪だとスーパーマンのようでけして負けることはない。
戦いに望んでは、けして逃げることはないし、主君のためには命をも捧げる。

 

だが、現実は、そうではなかった。
江戸時代は、斬りあいなんて、めったになかったというし、戦いでも負け戦になれば、逃げるものが続出したという。
誰もが、よく考えれば、それが当たり前だと思うのだが、昔の話だと何となく特別の武士像を持ってしまう。

この本は、現代人がもっているそんな武士像に対して、普通の武士像を示しているものだ。

 

たとえば、武士の教育度はそんなに高くなかったとか。
江戸三百年間で主君を変えなかった武士は、珍しいとか。
小説やドラマの武士像になれた現代人には、意外なことばかりだ。

だが、所詮は生身の人間である。
この本で書かれたほうが、真実であろう。

 

忠臣蔵は、主君の無念を晴らす武士の話である。
だが、お取り潰しにあった大名は、かなりあったはずだが、忠臣蔵のようなことは、江戸300年で赤穂の武士だけである。
ということは、お取り潰しにあっても、自分の次の就職先を考える武士がほとんどだったということである。
現代と同じである。
会社がつぶれたのなら、次の就職先を考えるのが、普通だろう。
たとえ、どんな形で会社がつぶれたにしても。
競争相手の会社の理不尽な行為によって倒産したにしても。

 

正直、この本を読んでいるとある意味では、現代人と同じ生身の人間を感じることができて何かほっとする。
自分たちの先祖も自分たちと同じだったと感じられて、何か安心するのだ。